ナレーション研究室は、朗読研究室でもある。

アメリカ、グラミー賞に朗読部門があったことを、2008年の大統領候補の闘いの中で、知った方も多いのではないだろうか。
オバマ氏が自作の朗読において受賞したのだ。
このサイトを覗いてくださっているあなたも、ひょっとすると、オーディオブックのサイトの方からきて下さったのかも・・・・。
本を読まなくなったといわれて、何年が経つだろうか。先日のニュースでも、出版社の名前を冠した雑誌が休刊になったことを伝えていた。
ピークの頃の何十分の一に読者が減ってしまったのだという。時代の流れの中で仕方のないことかもしれない。
巷にはあらゆる娯楽、そしてエンターテインメントがあふれている。それもよりリアルなヴィジュアルに支えられたものが多い。そうみんな見えてしまうのだ。あからさまに。
そうでなければ納得しない現代っ子も確かに存在するようだが、その軽佻浮薄さに飽き足らなくなっている人たちが大勢いることも確かなのだ。
本を読まないとすれば、耳で聞いてみたい。そして自分の頭の中でイメージを膨らまして、その世界を自分なりに描いてみたい。そう思う人たちだ。
つまり目で見るビジュアルはそのままであるのに対して、耳で聞く世界は、無限大の想像の可能性を持っている。
いやほんとうは、その無限大の可能性は本そのものにあるのだろうが、音の世界も捨てたものではない。
ゾクゾクするほどの感動の世界を提供することの出来るメディアなのである。音読、朗読、オーディオブック。今、新たな可能性を求めて、動き出した。
携帯における、SDミュージック、マルチオーディオプレーヤーでのMP3・4の鑑賞。ウェブサイトからのダウンロード、ストリーミング。
朗読という言葉が新たな意味を持って、認知され始めた。その中でこそ、求められるのが、クウォリティーだ。
読むことイコールナレーションではないと説いてきたが、まさに読むことイコール朗読ではないのである。
言葉、文字、そう、形容詞を一生懸命説明しているような、一元表現の朗読ほどつまらないものはない。それを我われはシンクロ表現と呼ぶ。
人間とは、常に二元、あるいは三元表現をするもの。言葉の裏に隠された、心の言葉が表現されてこそ、文学も文章も生きてくる。そのシーンが甦ってくる。
そのためには、その作者の世界にたどり着くプロセスこそが大事なのだ。
作者が頭に描いた絵を、私たちは、言葉の上に描けるだろうか。再現できるだろうか。
そんな勉強を一緒にして行きませんか。
今、ナレーション研究室は、朗読研究室でもあるのです。